神主の役、氏子総代の役などなど

 屋号:次郎左衛門宅(鷺沼1丁目)では、八剱神社の神主を二代前(昭和24年没)まで勤めていました。その後は八千代市の高津から来て貰っていたが、今は谷津の丹生〔にぶ〕神社の金子さんに来て貰っています。鷺沼の人は丹生神社をタンジョウさんと呼んでいます。

 氏子総代は8人で、祭りの段取りをします。互選で3年任期、再任を妨げません。次郎左衛門さんも一昨年まで2年間勤めたが、体調を壊し辞めたそうです。神社庁に届けるのは総代の内4人です。

 氏子総代は「剣の祭」の準備の内、総代は注連〔しめ〕を張ったり、剣を持って回るときの誘導をします。四百軒もあるところを回るので、回る順番も難しいそうです。なかなか回ってこないと言う電話もよくかかってくるそうです。今は携帯電話があるのでずいぶんと連絡を取りやすくなったものだ、とのこと。二度別々に取りに来たという記憶の方もいらっしゃいました。

 「屋号:川端」の姑は大堀込〔おおぼっこめ〕の「十左右衛門」という屋号の家から嫁いできたが、そこはいつも回ってくるのが夜中になって待ちくたびれると言っていた、「川端」は八剱神社からすぐ近いので、早い時間に来るのでうらやましがられた、という記憶もありました。

 御神酒や甘酒の接待は町会がします。昔は剣の祭だけではなく、秋の祭にもお神楽〔かぐら〕があったそうです。「次郎左衛門の親爺(生きていれば99歳くらい→明治32年頃の生まれか?)」の代には囃子連の七、八人の仲間がいました。「次郎左衛門の親爺」が狐の面をつけているのを覚えているそうです。他におかめ・ひょっとこも。その後、今70歳くらいの世代にもお神楽のグループがあったが、笛の人は亡くなるし、そんなこんなで囃子も神楽も無くなったそうです。

 10月の根〔ね〕神社の祭には御輿が出ていましたが、今、祭に山車〔だし〕や神楽が無いのは寂しいと鷺沼の方々は仰います。祭りが終わってお酒で勢いがついて、納まっている神輿を担ぎ出して14号を止めてしまって、神輿ごと習志野警察に逮捕されたことがありました。そんな愉快なエピソードのある御輿が無くなったのでは、本当に寂しいことでしょうね。

 昔の神楽では、面白い踊りを舞いながら、ミカンを投げるフリをしたりしました。実際に神楽の後でミカンを投げていたそうです。武石は米を作っているから建前〔たてまえ〕のように小さな餅を投げていたが、ここではミカンだったそうです。今年見ていたら、行列させてお菓子を配っていました。投げると危ないので、行列になったとのこと。

 戦後まもなくは子供は剣の時に一緒について回ると、最後に10円、20円と貰えました。親爺が子供らに、ほらくれるぞと言って、並ばせて配っていました。他に面白いこともなかったしな、と懐かしそうでした。

 「次郎左衛門の親爺」は剣の祭の3月1日にちょうど間にあうようにどぶろくを作っていました。酒が買えない時期だけに酒が楽しみで、早く出来過ぎると酸っぱくなるし、遅いと不味い。今のように保温する機械なんか無いから、裸電球を低くぶら下げて温度を上げて早く発酵が進むように工夫したりしていたそうです。

集合 ねり 祈願祭 辻切り 宿 祭の夜 いわれ 参考文献

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